jarinosuke blog

about software engineering, mostly about iOS

京極堂 名言集 姑獲鳥の夏

どうもこんにちは。

最近は研究で忙しい日々が続いています。
その研究で技術書などの本を読む必要があるのですが、なかなかはかどらずにいます。

その理由としてタイトルにも書いたとおり京極シリーズにはまってしまったのです。
まだ第2シリーズ魍魎のハコの途中なのですが、第1シリーズがとても面白かったのでその中でとても心に残った言葉をなるべくネタバレはしないように書いていきたいと思います。その都合で少し端折ったりしている部分もあります。

これを読んだ人が京極シリーズに興味を持ってくれたり、人生に少しでも役立ててくれたら嬉しいです。

基本的にほとんどの台詞は主人公(?)である京極夏彦のものです。


人間とは何か。

これは主人公である京極夏彦との旧友である関口君が戦争〜戦後の闇市を振り返っているシーン。



私はヤミ市が嫌いだった。無秩序、混沌の中での自己主張、生きる強さ、皆私の嫌いなものだった。それが人間本来の姿だ、逞しさだという人もいる。多分それは当たっているのだろう。しかし私は、それが人間らしさなのだとすれば、少なくとも私自身は人間らしく生きたいとは余り思わない。

戦争は個人の意志に関わりなく命を奪う。戦場には当然人間らしさなどないはずだ。
しかし人間らしさを動物にはない人間だけの特性と仮定すると、戦場で殺戮を繰り返す異常な行為もまた、人間らしいといわねばなるまい。
そう考えると人間らしく生きるという事が、果たしてどういうことなのか私には解らなくなる。
あの戦場で、死の恐怖に対して野良犬のように怯えていた、ただそれだけの自分が、一番人間らしいとも思う。



この文を読んで妙に納得してしまった人はもう京極堂の手の中ですよ。一見へんてこだったり詭弁のようなものも恐ろしいほど論理的にスラスラと沁み込ませる事が出来るのです。私もこの文を読んでとても人間と動物の違いについてとても考えさせられました・・・。


人情とは何か。

これは京極堂が人間的母性と生物的母性を猿を例にとって関口君に説明するシーン。



京極堂「猿の話を知ってるかい?」
  関口 「猿の?どんな話だ?」
  京極堂「年老いた子連れの母猿が嵐に見舞われて、足を滑らせ、濁流に呑まれたとしよう。その猿は泳げない程の幼い子供と、もう泳げる子猿とを連れていた。流れは速く、大人の猿でも命が危ないという状況だ」
  関口 「それは大変だな?」
  京極堂「大変だ。さて、そこで君が母猿なら二匹の子供のうちどっちを助ける?一匹しか助けられない、両方助けたら親も死んで全滅だぞ。」
  関口 「だったら小さい方だ。大きいのは泳げるんだろ?それが人情だ。」
  京極堂「ところがね、母猿は迷わず大きい方を助けるんだよ。何故か。母猿にはもう生殖能力がない。小さい子猿は生殖能力を得るのに時間を要する。種を保存する上で一番大切なのは大きい方の子猿なのだ。生物の母性とはそういうものだ。固体の愛情は遺伝子の命令には勝てやしない。だが人間は違ってしまった。種を保存する事が唯一無二の目的でなくなってしまったんだ。それを文化と呼ぶか、知性と呼ぶかは勝手だが、とにかく万物の霊長の奢りは、もう一つの価値を構築してしまった。」
  関口 「生物は子供を産む為に生きている訳だな。そしてその子供も子供を産む為に生まれてくる訳だ。しかしそれじゃあ種を保存する事自体に意味があり、生きていること自体には意味が無い事になる。生き物とはいったいなんなのだ?
  京極堂何でもないんだ。意味なんかありはしない。そういうものなんだよ。いや、そういうものだったんだよ。

  ちりりんと、鈴が鳴った。



さあ、かなりズッシリと来る文だったと思います。でも生物と人間の違いってあるのか?って考えるきっかけになったとは思います。なんとなく長男長 女が優しくされるのも納得した気がします。



正義・法律とは何か。

関口との旧友であり戦友でもある木場刑事が被害者の関係者である者に警察は信用できないと言われた時に返した言葉。

関係者「お偉い人たちに俺の気持ちなんかが解るものかい。警察は俺達貧乏人に味方してくれたことなんかねぇ。いつだって神も仏も、俺の味方なんかしてくれねぇよ。」
  木場 「俺はな、先の戦争は正しい戦だと信じていた一人だ。玉音放送の話を聞いたときには何が何だか解らなくなったもんだ。しかし今、頭を冷やして考えてみるとやっぱりあの頃はおかしかったんだと思う。今の、この民主主義の世の中の方が正しいんだと思う。そうしてみると、正義なんてものは良く解らねぇお化けみてぇなもんじゃねぇか。勝てば官軍の喩え通り、強いもんが正義よ。だから」

  だからよ、と木場は凄んだ。

  木場「だからお前さんのいう通り、弱いもんにとっちゃあ神も仏もねぇ世の中なんだろうさ。だがな、だからこそ、神も仏も、正義も、信じられるもんが何にもねえからこそ、法律があるんだ。法律は弱いもんを強くしてくれるただひとつの武器だぜ。法に背くな。味方につけるんだ。



  木場らしい口回しで、決して論理的ではなく言葉遣いも荒いですが、だからこその迫力と説得力を文からだけでも感じることが出来ます。



人格とは何か(若干、物語の核心に触れるためネタバレ要素ありです

シーンと誰が喋っているのかについては伏せます。



人格とは何なのか、明確に定義できる人はいない。
それはたとえ個人の中でも、昨日と今日、朝と夕では微妙に、いやときには大きく違っている。ただそれは如何なる時も矛盾無く連続しているように感じられるから、結局ひとつの人格であると認識されているに過ぎない。だから本来、人格はひとつふたつと勘定できるものじゃない。二重人格というのは人格が二つあるという意味ではない。それらが一つの人格であると認識されない、あるいは認識できない程乖離してしまっている状態のことをいう。
一人の人間には人格がひとつしかないと思うことこそ、脳のまやかしなのだ。



どうでしたか。恥ずかしながら私もこれを読むまで二重人格についての認識を誤っていました。会社の顔、プライベートの顔、いくつ持っていて八方美人だとしてもそれも一つの人格なんですね。



日常、そして死とは何か

これは京極堂が事件後に関口に話しかけて元気付けているときに言った台詞です。



京極堂「日常と非日常は連続している。確かに日常から非日常を覗くと恐ろしく思えるし、逆に非日常から日常を覗くと馬鹿馬鹿しく思えたりする。しかしそれは別のものではない。同じものなのだ。世界はいつも、何があろうと変わらず運行している。個人の脳が自分に都合よく、日常だ、非日常だと線を引いているに過ぎないのだ。いつ何が起ころうと当たり前だし、何も起きなくても当たり前だ。なるようになっているだけだ。この世に不思議な事など何も無いのだ。



よく旅行などから帰る日などに「あぁ、もう帰りたくない。ずっとこの非日常に浸っていたい。」などと私自身良く思ってしまいます。これを読んでみて考えを改めさせられました。脳が解釈しやすいように線引きしているに過ぎないのです。もしそうしなければ自分の身にいつ、何が起きてもおかしくないと思っている状態で生活するのはストレスが半端じゃないですもんね。
ちなみに赤字で書いた台詞は京極堂の口癖です。
キリが良いのでこれで終わりにしようと思ったのですが、最後にもう一つ。



京極堂「人間は死ねばそれまでなんだ。死体はただの物体だ。成仏するとかしないとかいうのは生きている人間の決めることなんだ。」


実はこの続きにとても良い言葉があるのですが、それを書いてしまうと完全なネタバレになってしまうので是非本を買って読んでみてください。



終わりに

いかがだったでしょうか。
少しでも京極堂の価値観や考え方を感じていただけたなら嬉しいです。

またウブメの夏を読んで、「他にもこんな名言があるぞ!」とか「この解釈は違うんじゃないか?」などがあれば是非コメント下さい。
なにしろ私もまだ一回しか読んでいないので。

次の京極堂シリーズ2巻、魍魎の匣についてのエントリを書きましたのでこちらも読んでもらえれば嬉しいです。
京極堂 名言集 魍魎の匣

ここまで読んでくれた方ありがとうございました。
もし興味を持って、欲しいな、と思った方は是非手に取って読んで見て下さい。