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相対的な幸せ

今日はちょっと勉強とは関係なしに思ったことについて書きたいと思います。
本当に自分の感じたことを書きなぐっただけなので、論理的にもおかしなところが多々あります。


昨日の夕方くらいにテレビをだらだら見ていると、田舎の漁師さんやタイで「外こもり」をしている人を見て、幸せってなんだろう?と考えました。
なぜかというと、とても彼らは幸せに見えたからです。後者のタイの方は日本に帰ってきてからは自分の身勝手さに気付きながらも努力するのですが。。。

そこで気付いたのが、田舎の漁師さんなどは絶対的な基準で幸せを感じているのではないのか、と考えました。そこまでお金を稼いでいるわけでもなく、毎日働くながらも、あそこまで笑顔を浮かべ仲間でワイワイやっている姿を見るとそう考えてしまいます。

僕も含め、僕の周りには圧倒的に相対的に周りと比べて幸せを感じる人が多いと思います。
世間の評価で就職先を決めたり、偏差値の高い大学に入学するために必死で勉強したり、機能を重視したりするわけでも無くただブランドだからという理由で高いバッグを買ってみたり、どれも人からの目を気にした結果の幸せであるように思います。

また良く幼少時代の自由さなどを思い返し「昔は良かったなぁ〜」と言う人もいます。これも僕は自分の過去・現在・未来をただ単に相対的に見た評価であると思います。

過去(小学生時代)では自由に時間があり、学校が終わったらそのまま友達の家に向かい、チャイムが鳴ったら家に帰って寝る、という生活リズムが「現在から見たら」とても羨ましく思えます。しかし小学生だった当時にしてみれば、単調な生活でお金も全く無く意外と人間関係などにも苦労していたはずです。席替えの時の談合なんかもあったと思います。
逆に現在は時間は無くとも、自由に使えるお金は圧倒的に多いはずです。物理的制約(移動距離など)も過去に比べて自由です。
そう考えると相対的に美化した過去を現在より良いと考えているだけなのです。


このように人間はなんでも相対的に物事を比較します。まぁ絶対的に判断する事がいかに難しい事かは僕も知っていますが。
相対的に考える事が悪いことではありません。人と比べたうえで自分の能力を認識し、努力する事ができればいいと思います。ただ、相対的に比較した後で意気消沈してしまったりするのはとても良くないです。もちろんナンバーワンを目指すべきですが、最初からナンバーワンの人なんで絶対にいません。最初は自分という絶対的な基準で努力するべきだと思います。

あまり努力せずに「昨日の自分=今日の自分」というループに陥ってしまうと、普通は比較できるはずの無い「今日の自分と明日の自分」が比較できるようになってしまいます。今日も成長しないということは明日も同じなのですから。

明日が今日と一緒ということ以上につまらない人生はないと僕は思います。毎日なにかしらの不確定要素が発生するからこそ、毎日が面白くなるんだと思います。少なくとも小学生のときの僕の家にはパソコンなんてなく、毎日自分の部屋にあるテレビの映らないゲーム専用のテレビで64をみんなで遊んでいました。インターネットというものを初めて触ったのは中学校3年です。しかし全く面白くなく、それよりはゲームやテレビ番組のほうが面白かったのです。
しかし、来年からはインターネット企業で働く事に決まりました。少なくとも小学生の頃は八百屋さんか本屋さん、中学生の頃は夢など無く、高校の頃も部活に毎日通うので精一杯でそれどころではありませんでした。
このように人生何が起こるかわかりません。ふとしたことで人生は大きく変わると思います。僕の場合は大学1年の時に読んだ「Web進化論」と高校3年の頃に買ってもらった自分専用のPCがターニングポイントだったのかな、と今は思います。

やっぱり過去と今を比べても何も始まらないと思います。逆に色々な事の可能性が閉じていってしまうような気さえします。それよりも今できることをやり抜けば、必ず何らかの形で未来に繋がるはずです。

たまには過去を振り返り昔の友達と語り合うのも大切だとは思いますが、振り返ったままは良くありません。たまにバック走で未来に背を向けて走っている人も見ます。いつ転んでもおかしくはありませんね。




なんだか相対的という言葉をキーに色々な事を発散的に書いてしまいましたが、何か一つでも読んでくれた人に伝われば幸せです。